「正しい者は自分の欲望をコントロールするが、
正しくない者は欲望にコントロールされる」
善悪・倫理は理解しているつもりでも、欲望は強く人間は弱い者だ。結果的に気づかないまま欲望に駆られ、善悪をしっかりと見定めずに行動した結果、将来に影響する悪い評価を受ける場合もある。モノの善悪は、その時代時代で尺度が違う。善悪を定義するのは自分ではなく社会の体勢の目線である。正しい者は時代の定義を敏感に得て、欲望の強弱をコントロールし、結果的に悪い評価を生まない慎重な行動を取る。
欲望を無くせと言うのではない。上手くコントロールすべきものと訴えている。
「もしあなたが、悪への衝動に駆られたら、
それを追い払うために、なにかを学び始めよ」
悪への衝動、悪行の対価への欲望。そう言うものに負けそうな自分は、間違いなく「未熟」である。イチゴを目の前に置かれ、おやつの時間までは食べてはいけませんと言われても食べたい衝動に駆られて食べてしまう子供と同じだ。
そういう時は、何でも良いから、何かを学んで自らを成長させる事だ。人生観や理論を学ばなくとも、数学でも経済学でも良い。自らの脳みそに新しい知識、新しい刺激を与えることだ。その情報や知識、そしてその行為は、未熟な自分を必ずや成長させる。成長した自分が同じ衝動に駆られるなら、勉強が足りないだけだ。未熟な判断は、賢くなる事で防げるのである。
「他人の善意で生きるよりは、貧しいままでいる方がいい」
善意は謹んで受け入れるべきだが、それを生活の糧にしてはいけない。それならば満たされずに日々暮らし、自らの思いを遂げる努力をすべきである。 自らの満足を他人の行為に求める者は、人生を捨てると同じ事である。人間としての誇りを内に秘める事の大切さを訴えている。
「他人の前で恥じる人と、自分の前で恥じる人では大きな開きがある」
他人の前で恥じるのは、自分が恥をかいて嫌だと言う稚拙な感情から来る。しかし、自分だけの世界で自らを恥じる時は、自分自身に大きな責任を感じて自らの行為を改革する決意や責任感がある。そもそも他人の前で恥をかくのは損では無く自己成長に繋がる。訊くは一時の恥、知らぬは一生の恥と故事にも言われている。