15万もの敵勢の侵攻に武田軍では謀反が頻発した。
武田の親族でも最も血の濃い穴山梅雪をはじめ、朝比奈、小笠原など、主立つ家臣がなだれを打つように織田軍に投降した。
木曾の謀反を鎮めるために出立した勝頼の軍五万は、新府城を捨て、落ち延びる時にはわずか数十人。
信長軍は無人の原野を進むように甲斐・信州を征服し、ついに勝頼一行を天目山で自刃させた。
甲斐の武田はひと月もかからず信長の手で滅びた。
天正十年の夏、駿河知行割の礼にと、家康は安土を訪れた。
同盟とは言え格下の家康に対し、信長は礼を尽くした饗応で迎えた。家康の東の守りは無視できない。
その宴の接待役に光秀があてられていた。
光秀は日本海に面す丹波丹後と京のある山城を領し、朝廷や公家との連絡役とし
て重責を担っている。
信長は、かつて猛将と云われた頃の面影を潜めた光秀に不満を持っていた。
家康をもてなす酒宴の途中にも係わらず、光秀に山陰攻めを命じ、更に現在の所領を召し上げた。
新たな所領は毛利から奪う新領地とする前例のない命令だった。
光秀は50歳を迎え、当時では充分老齢の粋に入っていた。多くの領地、領民を抱え、日々穏便に暮らす事を夢見、織田の猛将として四半世紀を戦い抜いた。
数日後、信長は京の常宿としている本能寺に居た。
京の都は現在周囲を織田領に囲まれ敵の入る余地は ない。信長警護も数十人と
言う少なさだった。
その時、山陰と京への分かれ道に光秀の軍勢1万強が居た。光秀は全軍を止め、軍議を開き、謀反の意を配下の武将に漏らした。
軍議は直ぐ纏まり、一行は京の本能寺を目指した。
明け方、本能寺に明智軍が殺到した。
ざわめきに目を覚ました信長に、森蘭丸が明智軍の謀反を伝えた。
「是非もなし」そう叫んだ信長は光秀の実力を充分に知っている。光秀が負ける戦を仕掛けるはずもなく、その時点で死を覚悟した。
信長は槍をつかみ応戦した。光秀の兵は強い。
「もはやこれまで」傷を負った信長は、炎渦巻く本能寺の奥へ消えた。
光秀は燃え盛る本能寺を門外の本陣で見ながら、信長との四半世紀を思い出していたに違いない。
次回最終回は、信長の残したものと題し、2年に渡る連載の締めくくりとします。(筆者)
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