<連載読み物>
小田原 青色申告会 発行 青色NEWS WEB
青色NEWS WEB

2005年7月号〜2006年6月号
竜馬かく語りき

1 世の人は我をなんとも言わば言え 我成す事は我のみぞ知る。






 
 江戸末期、黒船来航。幕府は各藩に黒船監視の命令を出し、浦賀は多くの武士で埋まっていた。大砲を構える船団に対し、戦国絵巻に出てくるような鎧兜の武士も居た。
  龍馬も土佐藩邸の命令を受け多くの江戸留学藩士と共に浦賀へ駆けつけた。
  藩士の多くは黒船を初めて見る。その恐怖を打ち消すためにそこここで勝どきが上げられていた。「黒船は凄いのぉ、わしもいつかあんな船を持ちたいぜよ」龍馬は思うままを素直につぶやいた。「藩主で無いおまんのような郷士(下級武士)に船が持てるか?」同僚は龍馬の大風呂敷に辟易した。
  龍馬は思った。「おまんらに俺の将来が決められようか?おまんらの天秤で俺の度量が測られようか?」
  龍馬にはもとより「こうでなければならない」と言った「既成概念」が無い。だから郷士の息子でも船が持てると心底思っている。
  大切なのは、いかにして船を手にする算段をし、実行するかだ。だから、何の行動も起こさないうちから出来ないと言う判断を下す既成概念に縛られた人間を最初から相手にしない。「誰が、何処の人が、俺の事を何とでも言うが良い。俺はまず志し、それに向かうだけだ。飽きたらやめる。飽きるまでは決してあきらめない。郷士であろうが白札(上級武士)であろうが、我と言う一己の士を良く知るのはこの自分である」
  数年後、長崎で設立した日本初の株式会社「亀山社中(後の海援隊)」で長州薩摩の出資を受け、龍馬はついに船を手中にする。
  既成概念に縛られ、与えられた立場に甘んじる者。
  概念に縛られず、自らの将来を切り開こうとする者。
  今、この混沌とした時代に必要な想いはいずれか?

【坂本竜馬】
土佐藩を脱藩した一介の浪士でありながら、どこの藩にも属さない海軍「海援隊」を創設。薩長連合を実現し、大政奉還に大きく貢献した。明治の立役者でありながら維新直前、33歳の若さで暗殺される。
●2005年7月号掲載



2 恥と言う事を打ち捨てて世の中の事は成るべし。






 
 龍馬は他人の目を気にしない達人だった。
  年上の武市半平太の家に遊びに行くときには必ず門脇の塀で立小便をしていた。半平太の妻は龍馬の行為をいさめて欲しいと懇願し、半平太が龍馬に「家の中の厠を使え」と話すと、「その時間が勿体無いんじゃ」と軽くあしらわれた。
  龍馬の価値観は一番大事なところにある。それを大切にするから、立小便ごときは意に介さない。
  人が何と思おうが、自分の中の「やるべき事」を淡々とこなしていく。その際、どのような印象を他人に抱かれようと関係ないのが龍馬流なのだ。「恥と言うことを打ち捨てて、世の中の事は成るべし」
  薩長連合・大政奉還と明治維新へ向けた大事業を推し進めるのに「人がどう思う」とか「恥ずかしい」とか詰まらない事に気を取られては大きな負担になる。
  世間体、体裁、羞恥心、世の中の殆どの人が気にする事だが、事業を成そうという人には無縁であるべき余計な意識なのだ。
  ここで間違えては成らないのは、何をしても良いと言う事ではない。
  恥を捨て牛馬の如く推し進める事業には、世の中の多くの人の「利」つまり、「大義名分」が備わっている事が大事である。
  龍馬は己のために恥を捨て事を成したのではない。四民平等、民主政治を日本に誕生させるために、多くの人が不公平無く幸せに暮らすために働いたのだ。
  現代の商売・商人にもまた同じ事が言える。身の丈に会わない見栄を張る。体裁ばかりを気にする。全ては恥をかく事を恐れた無駄な行為である。それに費やす時間・金額は馬鹿に成らない。
  戦後、焼け野原の中で、泥まみれになって働いた親の姿を思い出したい。
●2005年8月号掲載



3 「世に生を得るは事を成すにあり」






 
 龍馬は11月15日に誕生し、明治維新前夜、33歳の11月15日にこの世を去った。
  龍馬は西郷ら維新の中心人物から新政府の幹部に名を連ねるよう再三要請されたが、この大政奉還で自分のやるべき事は全て終えたと辞退していた。「そうさな、世界の海援隊でもやって、ひと儲けしちゃるかのう」
  まるで明治の扉を開くために生を受け、役目を終えると同時に天に召し上げられたように思える。「人の跡を慕ったり、人の真似をしたりするな。釈迦も孔子も、シナ歴朝の創業の帝王も、みな先例のない独創の道を歩いちょった」龍馬はよく周りにそんなことを言っていた。「世の人が全て善をするならば、己一人は悪をせよ」とも言っていた。
  人と違うことをして、その結果をみて考える。と言うのが龍馬流である。紋付袴にブーツを履いてみたり、埃まみれの胸元にコロンを香らせてみたり、使ってみて便利だったら、自分流に使う。「男子、世に生を得るは事を成すにあり」
  現代では男女も無かろうが、その時代、男は自分を鼓舞する特別な言葉として男子、と冠した。
  自分はただ何事も無く生きて、何事も無く死ぬ為に生まれたのでは無い。
  この世に望まれ、使命を以って生まれ、その使命をひたすらに実行し、成し終え、やがて人知れず風の様に消えていく。
  名声や地位を望むものでなく、むしろどのような事を成し得たのか、その価値は己一人が知ればよい。それが男子である、と龍馬は自らの行動で示した。
  男女平等、同権。それは素晴らしい事である。が、それに甘んじて日本男児の美しさを忘れちょるんじゃなかろうかのう。
●2005年9月号掲載



4 「人間に本来、上下はない・・・」






 
 龍馬の仲間に岡田以蔵という下級武士が居た。
  学も家柄も無く、剣のみで名を成そうとしていた。
  龍馬の同胞、土佐勤皇党の武市半平太は、そんな以蔵を使って、多くの佐幕派要人を殺害させた。
  以蔵は人殺しを天誅と考え、世直しの為にやっているのだと思い込んでいる。半平太による洗脳である。
  龍馬は京都で暗躍し、辻斬りとしての名が響く以蔵を案じていた。
  ある日、半平太のもとをたずねた龍馬は「以蔵を用心棒に貸しちょくれ」と頼み、勤皇党からすれば天敵である幕府軍艦奉行の勝海舟の警護に当たらせた。
  以蔵は、大好きな龍馬からの頼みを、腑に落ちないながらも承諾した。
  ある晩、大阪で勝を狙う一党に遭遇した。以蔵は素早く切り付け、残党に大声で告げた「土佐の岡田以蔵だ」残党はその名を聞いてあわてて逃げた。
  勝は以蔵に「人殺しは良くない」とたしなめたが、「今、助けなければ、勝先生は死んでました」以蔵の応えに勝は黙す以外無い。
  龍馬はある日、以蔵に告げた。「人間に本来、上下はない。浮世の位階というのは太平の世の飾り物である。天下が乱れてくれば,ぺこぺこに剥げるものだ。事を成さんとすれば,智と勇と仁を蓄えねばならぬ」
  天下の混乱に治を成そうとすれば、家柄や階位は関係ない。知識と勇気と善行を積むのだ。
  しかして学の無い以蔵は、ただニコニコして、自分に語りかけてくれる龍馬の顔を笑顔で見つめていた。
  後年、半平太・以蔵を含む土佐勤皇党は土佐藩佐幕派に捕らえられ処刑された。「咲いた桜に、何故駒繋ぐ、駒が勇めば、花が散る」
  無念に死に行く同郷の仲間達に読んだ句である。
●2005年10月号掲載



5 「大賢は愚に似たり・・・」






 
 龍馬の少年時代は「よばあったれ」、黒船を欲っした青年時代は「大風呂敷」。後の盟友となる中岡慎太郎も、初対面の時には龍馬を「阿呆」と見限っていた。
  しかし、「えにも言えぬ不思議さ」があった。江戸での剣術修行時代、北辰一刀流小千葉道場の塾頭を担っていた数年間、塾生の誰もが悪ふざけを好む龍馬に魅了されていた。土佐の勤皇党の中にも龍馬を慕う者が多く、後の神戸海軍操練所設立時には多くの土佐脱藩浪人が参加した。龍馬に「何だか解らないけど、一緒にいるとワクワクする」と言うような「不思議な力」があった。「大賢は愚に似たりと古語にもいうぞ」と、龍馬は言う。
  たとえ賢くても、賢さや鋭さを表に出し、人を威圧するようでは、その人物は二流に過ぎない。
  一流の人物とは少し馬鹿に見える。少しどころか凡人から見れば本当の馬鹿に見える時もある。そのくせ、接した者に不思議な印象を残す。
  世の中の事を為さんとする者は、すべからく衆の力を必要とする。
  行動に伴う結果が大賢であれば良い。行動を伴わずに自らの大賢ばかりをひけらかす人間であっては成らないのだ。
●2005年11月号掲載



6 「慎重は下僚の美徳・・・」






 
 「熟慮断行」と言う言葉がある。物事はじっくりと練り、好機を掴んで、一気に実行する。と言う意味。
  平和な世なら通るが、事荒れて流動的な時代には、熟慮では好機を逃す恐れもあり、そのまま鵜呑みに出来ない言葉でもある。
  龍馬の行動は思いつくがままと言う荒い感もあるが、詰まるところ結構考えている。考えながら行動し、結果を見て次の判断をスピーディーにこなしているから一見無鉄砲にも見える。「慎重もええが,思いきったところがなきりゃいかん。慎重は下僚の美徳じゃ。大胆は大将の美徳じゃ」
  大将のその時々の判断が部下の命を左右する。決断を躊躇する大将の下では、好機を逃し、郎党危機に瀕する。対して、好機の判断は早ければ早いほど有利に働く。
  仕上げをあせる半平太に「あせるな、好機を待て」とたしなめた龍馬であるが、仕上げではなく、好機を逃さず、一気に堰を切るタイミングの大切さを説いているのである。
●2005年12月号掲載



7 「自分の役目」






 
 京都二条城で将軍慶喜が大政奉還を発し、江戸へ向かう船中で、龍馬は新政府の憲法草案を作っていた。
  有名な船中八策と呼ばれる明治憲法の原案となった草案である。
  同時に、新政府の閣僚案を西郷隆盛らに見せた。
  薩摩・長州・土佐の藩主や西郷・桂などの功労者の名前はあるものの、肝心の龍馬の名前が記されてない。「なんでおはんの名が書かれてないんでごわすか」
  薩長同盟・大政奉還の立役者であり明治維新の実の功労者である龍馬が、新政府の一員にならないことが西郷にとって不思議でならない。「わしゃ、世界の海援隊になって、もうひと儲けしますかのう」
  龍馬は明るく答えた。
  自分の役目は、江戸幕府が消滅し四民平等の礎が出来たことで既に終わっていると思っている。
  功労の俸禄、堅苦しい爵位にも興味が無い。
  自分でなければ為せない事に執着し、それが為された後の事は、為すべき役目の人物に委ねるのが良いと判断したのだ。
  欲や執着の無い龍馬だからこそ出来た事、自分の役目に徹底し去り際を極めた潔さ。権力欲・名誉欲におぼれる今の社会。是非龍馬を見習って欲しいものだ。
●2006年1月号掲載



8 「我は昨日の我ならず・・・」






 
 龍馬と言う男、とかく新しい物好きであった。
  長崎で買い求めたオーデコロンをつけたり、懐に拳銃を持ち歩いたり、右写真の足にはシューズ(ブーツ)を履いている。奴隷を解放したリンカーン大統領を敬愛し、一介の浪士でありながら、軍艦を欲した。
  仲間に連れられ勝海舟を暗殺しに向かうが、勝の大儀に心を打たれ、暗殺するはずだった相手に弟子入りしてしまう。
  ポリシーが無く浮雲のように無責任な行動にも見えるが、激動の時代に新しい情報を的確に掴み、良いものは何でも受け入れる柔和な心を持っていた。
  当時の武士は己の言動に命を懸けたが、龍馬の場合そのような美徳は無い。
  太平の時代ではなく移り変わりの激しい時代、過去の有名無実化した慣習や作法などの小極に拘らず、新たな時代を如何に築くかと言う大極を見つめようとしていたのが龍馬である。
  己のプライドよりも、明日の日本を考え、毎日の成長を実感していた龍馬だからこその言葉である。
●2006年2月号掲載



9 「人の一生と言うものは」






 
 「人の一生というのは、たかが50 年そこそこである。いったん志を抱けば、この志に向かって事が進捗するような手段のみをとり、卑しくも弱気を発してはいけない。たといその目的が成就できなくても、その目的への道中で死ぬべきだ。生死は自然現象だからこれを計算に入れてはいけない」
  以前から紹介している様に、船を欲したり、脱藩したり、どの藩にも属さない海援隊と言う軍隊(商事)を組織したりと、龍馬の望む事成す事は、常人の物差しでは計りきれないところがある。
  誰もが出来ないと思うような事を思いつき、それを実行し、達成してしまう要因が、前述した龍馬の言葉の中に在る。
  写真にもあるように、龍馬の耳横の髪の毛が膨らんでいる。元々癖毛なのだが、油で髷を結い上げるのが窮屈と言う。結われると、自分の両手に唾をつけて、耳横の髪の毛をほぐしてしまうからこんな髪形になっている。
  当時、武士は身なりを重んじる傾向にあったのだが、袴は手紙を書く時に筆を拭うので墨だらけ。埃にまみれても汗で匂っても平気。
  龍馬にとっては、人にどう思われようと、身なりを気にすることなど小さな事に過ぎなかった。
  生死を厭わず、己の志に向かって、一直線に、我武者羅に突っ走った龍馬。彼の言葉の通り、前を向きながらこの世を去った。
●2006年3月号掲載



10 「危機に立って、初めて価値のわかるもの」






 
 龍馬は過去、幾度と無く死地を掻い潜って来た。
  京都の寺田屋で大勢の捕り方に囲まれ、親指を負傷し、失血で瀕死の重傷に陥ったこともある。
  相手が誰かは定かでなくとも、夜道を襲われたことも数え切れない。
  その都度、剣の達人、強い精神の持ち主であった事が危機を回避する大きな役割を担ったが、ここで言う危機とは少し違う。
  龍馬は死ぬことを恐れていたのではない。新しい時代の幕を開ける行動が進捗しない事態を危機と感じていたのだ。
  龍馬自身のことで言えば長崎の地に創設した亀山社中(海援隊の前身)の初期がそれに当たる。
  隊員が、何も志士としての活動が出来ないまま、その日を食べる事が精一杯の状態であった頃、ジレンマに駆られる隊員を叱咤励ましながら、手探りの状態で未来への扉を探していた。
  社中を脱退し、混乱の京で命を落とす者も多く居た。
  龍馬はそんな窮地にあっても長州・薩摩との関係を継続し、やがて薩長連合を結ぶ礎を築いたのである。「男は(人は)危機に立って初めて真価のわかるものである」
  危機とは、それ程派手なものではない。むしろ地味で、格好の悪いものの方が多い。そんな心を折られるような環境下で、初めて人の強さが生きるのである。
  同時期に、浪士組(後の新撰組)の創設に関わった清河八郎と言う浪人が居た。
  対立する幕府と勤皇の志士の中間点の勤皇佐幕と言う新しい枠組みを作り、幕府直轄の浪士組を組織したが、本当の目的は幕府を騙し、倒幕へ向かう策だった。
  浪人だった清河は、その功労で生活が楽になったが、酒場で泥酔したところを幕府の刺客に暗殺された。
  危機にあたり、問題を先送りし油断した清河。
  一方龍馬は、日々に忙殺されつつも、明日への手がかりを探り続けていた。
  危機に立ち、初めて真価の問われる人間の器。
  龍馬は清河を「策士、策に溺れる」と評した。
●2006年4月号掲載



11 「背中を切れない男」






 
 座禅をするより、そのつもりで歩けばよい。
  合理主義者である龍馬は、座禅により得られる精神的な強さを求める手段として、たとえ歩きながらでも座禅を組んで精神を統一している事を想像しながら歩けば良いと説いている。
  龍馬は幼い頃より弱虫で、何時までも寝小便を垂れる「よばあったれ(弱虫小僧)」と言われていた。
  寺小屋も行ったり行かなかったりで、心配した家族は、せめて剣だけはと思い、剣術道場に入れた。
  剣術道場に通い始めた頃の龍馬は、すぐに泣きだす師範泣かせの劣等生だった。
  ある日、そんな龍馬にある修練を思いついた。
  師範は、龍馬に告げた。『いつも頭上に大きな岩がある事を想像しなさい。いつその岩が落ちるかもしれないが、たとえ潰されても武士として平然と居られるように、毎日欠かさず、想像しなさい』15歳の龍馬は、大きな目を更に丸くして、師範の言うことを聞いていた。
  それからの龍馬は、その岩が、いつ落ちてきても、平然と死ねる覚悟を養うため、道場への通いの道中、15歳から18歳までの4年、常に頭上の岩を意識した。
  飽くまで想像であるはずなのに、本当に怖くなって足がすくみ、周囲の物音にも怯えてしまう。
  想像に没頭すると、目をつむってしまい、何度も転んだし、歩き方が可笑しいと、周囲の人に笑われた。
  18歳のある日、自分で想像したものに怯える事がばかばかしくなった龍馬は、その後意識するのをやめた。
  が、その頃から龍馬は剣術でも頭角を現し、修練生の最高位である目録の地位まで上がり、道場で抜きん出る強さを現しはじめた。
  あるはずも無い恐怖に脅かされる修行が、竜馬を変えた事は事実である。
  これが、龍馬をもってして「背中の切れない男」と言わしめる元となった。

【龍馬MEMO】
龍馬の坂本家は「違い枡に桔梗」の紋所で、祖先は琵琶湖畔の町坂本にて城持ち大名となった明智光秀とされている。室町時代には長曾我部氏の臣下であったが、江戸時代に山内氏の支配下となり、郷士に下ったとあるが、元々才谷屋という豪商であったのが、後に郷士株を買い、武家となったとも言われている。龍馬の坂本家は分家が豪商であったので、郷士とは言え裕福で、藩からは特別扱いされていた。
 
●2006年5月号掲載



12最終号 「西郷隆盛、竜馬を評す」






 
 龍馬を評する時、周囲の名の残った人物の評を参考にする。特に、西郷と出会ってからの龍馬は、水を得た魚の様に東奔西走した。
  龍馬と西郷の最初の出会いの時、客室で待たされた龍馬は、虫の音を聞き、庭に鈴虫を取りに出た。
  西郷が客室に現れたとき、龍馬は挨拶もせず「虫かご」と笑顔で言った。西郷は気を飲まれ部下に虫篭を持ってくるように指示した。
  西郷は龍馬を見て、男は愛嬌こそ大事だ、と思った。
  龍馬を評して曰く「命も要らず、名も要らず、官位も金も要らぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん=困難な目にあうこと)を共にして、国家の大業は成し得られぬものなり」「大奸智(良くも悪しくも知恵のある人物)にして、無欲の人」「よほど無邪気な仁じゃ。大事をなすには無邪気で私心がない事が肝要じゃ」
  また、初対面の龍馬に面し、のらりくらりと心の内を見せない西郷に対して、龍馬は「われはじめて西郷を見る。その人物、茫漠として捕らえどころなく、ちょうど大鐘のごとし。小さくたたけば小さく鳴り、大きくたたけば大きく鳴る」と評している。
  脱藩浪人で追われ人であった龍馬は、西郷との面会後、時に薩摩藩士の才谷梅太郎と名乗る事もあった。
  熱血漢の長州藩士とは違い、時流を見、常に冷静な判断を下す西郷は、当初幕府側であったが、薩長同盟を機に、反幕府体制を取り、武力による倒幕を目指した。大政奉還という武力に依存しない倒幕・維新を為し得た龍馬とは、龍馬の晩年、袂を分つ事と成る。
  明治維新から百年以上も経過した現在では考えられないかもしれないが、当初西郷は、倒幕後、藩主を征夷大将軍に収め、薩摩幕府を開くつもりであった。長州も同じ考えであった。
  龍馬が目指す民主主義の世の中は、当時では誰も想像できなかった世界だったのである。
  龍馬は明治政府が五箇条の御誓文を発する一ヵ月前に暗殺された。
  まさに、日本に民主主義を開き、近代化させるために天が使わした使者のような気がする。その仕事が終わるや、龍馬は急ぐように天に帰っていった。
●2006年6月号掲載




 

小田原青色申告会
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